ほった泰司(やすじ) – いちばん心配で いちばん大切な 津市へ

東日本大震災について

  • 2011年4月12日

東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
被災者の皆様には、心からお祈り申し上げます。
一日も早く復興されますようお祈りいたします。

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SAVE THE CHILDLEN

今ここで問いたい
絶望に打ちひしがれた世界を
誰が心から気遣ってくれるんだい?
誰が注意を払ってくれるのだろう?
そのうち、歌声すら聞こえないような世の中になってしまう
花は咲くことなく、鐘の音も鳴り響かない
誰が気に留めてくれるだろう?
消え失せようとしているこの世界に
喜んで救いの手を差しのべてくれるのは一体、誰なんだい?
世界の状況を目の当たりにすると、悲しい気持ちでいっぱいになるよ
今、目の前ではしゃぐ幼い子どもたちも、明日には苦しむ運命にあるんだ
こんなひどい世の中で暮らすなんて、なんて情けないものだろう
それはひとりひとりの責任、それでも僕らは
命ある限り生きてゆかなければならない
みんなには生きる権利があるんだ
子どもたちのために生きて行こう
未来を担う子どもたちのために
さあ、だから子どもたちを救おう
世界中の子どもたちに救いの手を差しのべよう
この世に誕生したばかりの子どもたちを救おう
誰かを愛したいと願うなら、
この世に生まれた全ての子どもたちを救おう
けれど、一体、誰が気にとめてくれるんだい
この世を
この美しい世界を
誰が心から救おうとしてくれるのだろう
消え失せようとしているこの美しい世界を救おう
みんな、賛同してくれ

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明日のほうが、今日よりも賢い

  • 2011年4月11日

子供が生まれたことで、未来に対する関心がずっと高まった。世の中がどんなふうに動かされているのか。
今の子供たちの世代には、未来があるのかすら確かじゃない。
情報化社会では人々が直接に世界のことを知り得る。
そんな新しい世界をいかに理解するべきなのか。
一億総評論家になった日本人だが、こと政治については、この期に及んで評論しているだけではダメ。すべての人が「こうするべきだ」という議論が必要。
満足したら、その途端、やることはなくなる。むしろ満足しないほうがいい。そうした姿勢でなければ、進歩はない。
お互いが同じ意見を持つ必要はない。それぞれが正しいと思ったやり方で、お互いの考えを重ね合わせながら良いものを作っていく、そうした意味の信頼関係を築くべき。
考えるべきは、今日ではなく明日のこと。
さあ、もっと議論しよう。

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真贋 PART 2

  • 2011年4月6日

老人というのは、人間の中の動物性が極限まで小さくなった、より人間らしい人間であって、それは老人が本来評価されるべき点である。
身ぎれいにして、見た目を意識すること。それが本当に必要なのは、実は年をとってから。
利害関係を第一に考えるのはやめたほうがいい。まったくゼロにすることは無理にしても、自分の判断力の中に、何気なく含めるというぐらいの気持ちで加えるようにするのが、いい人格のつくり方。
どんなことをやっている人でも、何かをやれば必ずそのものを価値化することになる。それと同時に、自分のほうは動物化、有機的人間化している。
その人の性格を決める、特に重要な期間が二つある。一つは乳児期、もう一つの時期は、前思春期に近い、十代の半ばぐらいのところ。
乳幼児期から前死思春期までの過程における母親の存在は重要。
西欧流では、生まれたばかりの赤ちゃんを、母親から離したほうがいいという考え方をする。それは早いうちから親から離したほうが、自立心が養えて甘えのない人間に育つということ。
日本の場合は、親が添い寝してしょっちゅう皮膚接触しているような育て方をしているので、日本人は甘えが強いと言われる。
大体人間は死ぬ間際まで、思い起こすのは母親のこと。
正面切って向き合って、怒るときは怒り、かわいがるときはかわいがる。
コンプレックスは生きるテーマになる。
生まれつきの性格の問題は、自分と問答する中で解決するしかない。解決しなくても、自問自答する中でそれは徐々に解消させることができて、人間関係については、その意識的に変えた部分でつきあうことができる。
人間として大切なことを考えたり、それを実現するために自分の行動の仕方を変えたりする意識が重要。
大切なことはその都度変わっていく。だから何が人生で重要だというふうに言われたら、大切なものと現状の自分との距離について考えていくこと。
その時代時代で、みんなが重要だと思っていることを少し自分のほうに引き寄せてみたときに、自分に足りないものがあって行き得なかったり、行こうと思えば行けるのに気持ちがどうしても乗らなかったりする、その理由を考えること。
世の中、理想の自分と現実の自分が違うことがほとんど。誰しもが葛藤を抱え生きているもの。
倫理や健康が極端に走るとき、とてつもない事態まで進んでしまう。
戦争には正義の戦争と不正義の戦争があるというような考え方、あるいは、善玉、悪玉があるという考え方はまったく嘘だということ。
すべてが逆な方向へと進んでいる。
社会的規模で武士道や男気が大切にされれば、道徳は回復するだろうというのは、もっともな意見。しかし、そんなことが簡単にできるくらいなら苦労しない。日本の社会は、すでによくなっているはずです。それができないのはなぜかと言えば、時代の発達のスピードが速すぎて、もはや、武士道や男気で何とかするというやり方では間に合わないほど、現状が進んでしまった。
いまの状況をどこで超えるか、ここだったら全体的に超えられるということを考えて見つけてやる以外にない。
欲望がすべて満たされたら満たされたで、人間はまた悩み始めているかもしれない。
現代は人類がかつて体験したことのないまったく新しい状態まできている。
よさそうでかつ害のなさそうなことをやる、小規模でもやっていくということ以外にこの新しい時代に対処する方法はない。
一つはっきり言えるのは、いいことをいいと言ったところで無駄だということ。
いいか悪いかではなく、考え方の筋道を深く追わなければ、問題の本質が見えてこない。
何はともあれ、いまは考えなければならない時代。考えなければどうしようもないところまで人間がきてしまったというは確か。人間としてというのは善も悪もやり尽くさない限り新しい価値観を生むことができないのかもしれない。いま、行き着くところまできたからこそ、人間とは何かということをもっと根源的に考えてみる必要がある。

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真贋 PART 1

  • 2011年4月5日

そもそも、暗いところにこそ、真実が隠されているのでは。
明るいからよくて、暗いからだめだという善悪二元論で考えると、物事の本質を見誤る恐れがある。
善悪二つのモノサシしか持っていないと、人間は非常に生きづらさを感じるもの。
科学技術が発達しても、人間の魂、精神が発達するわけではない。
まだまだ進歩を続け、人間の生活はますます便利になっていく。
現代というのは、文明や科学がどんどん発達していく一方で、人間の愚かしさがよりわかる時代かもしれない。
だから、いいことばかり言うやつが増えてきたら、ちょっと危ないときだと判断したほうがいい。
利を得ると同時に、毒もまた得ると考えたほうがいい。
毒というのは利と一緒にある。そして逆説的な言い方をすると、毒は全身にまわらないと一丁前にならない。
いい生き方とは、自分が持って生まれた運命や宿命というのがあるとすれば、それに素直に生きていくことではないかと。では、運命や宿命とは何かと言われれば、主としてその人と母親との関係で形成されてきたもの。
いいことを言うときには、何気なく、平気な感じで言ったほうがいい。逆に腕白な悪童のようなことを言うときには大きな声で言う。
いいものは好き嫌いで判断できない何かを持っている。
シンプルな基準を自分の中に持っていると、第一の利点として、まわりにふりまわされることが少なくなる。
身のまわりの感じを大事にする。
強弱は、重要なポイントになる。
これは俺にしかわからないよと感じさせるためには、自己が自己を劇化する、あるいはドラマ化するという客観性を持つ必要がある。
自己評価より低い評価を歓迎する。
人間というのは、表面的に見えてくる性格だけでなく、過去の育ち方が裏に隠されているもの。だから、人を見るときは、過去における人間関係や現在置かれている状況など、多角的な視点で見なくてはいけない。もっと言えば、母親と子どもの関係をもう少ししっかり考えるべきである。
最終的な責任は自分が負う。
人やものに対する判断や評価は、見ている側の心の解釈次第ですから、自分の考え方が絶対だと信じ込むのは危ないこと。
全否定も全肯定もなかなかできないもの。ただ、唯一全否定できるもの、悪と認めてはばからないものに戦争というものがある。
善玉だと思っているやつ同士が戦争をするわけだから、双方で理屈はいくらでもつく。
いい関係かどうかを判断する基準は、お互いが言いにくいことをきちんと言えるかどうか。
職を離れたら、人間としては平等、という発想が日本人にはあまりない。
人を見る上で大事なことを挙げるとすれば、その人が何を志しているか、何を目指しているかといった、その人の生きることのモチーフがどこにあるかということ。
文明の利器によって、距離がうんと近くなると同時に、見方によっては、うんと遠くなったのも事実。
日常生活のスピードと、才能や感覚といった進展の仕方、つまり円熟のスピードがちぐはぐになっている。
人間はたとえ金銭的に恵まれて、何不自由のない生活ができるようになっても、それだけでは精神的にすまないもの。

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はじめまして

  • 2011年4月4日

はじめましてほった泰司(やすじ)と申します。
これからこのブログで活動報告をしていきたいと思いますので皆様よろしくお願い致します。

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